正倉院について

宝庫について

正倉は前記のとおり,もとの東大寺の正倉で,奈良時代以来宝物を襲蔵してきた宝庫です。檜造り,単層,寄棟本瓦葺きで,高床式に造られています。間口約33メートル,奥行約9.4メートル,床下約2.7メートル,総高約14メートルの大きさをもち,床下には直径約60センチの丸柱が自然石の礎石の上にどっしりと立ち並んで,巨大な本屋を支えています。その豪壮な構えと端正な姿は,まことに奈良時代第一の大寺である東大寺の正倉,わけても国家的宝物を安置する宝庫にふさわしいものです。

正倉院正倉

正倉院正倉

南東から見た正倉

南東から見た正倉

倉は三倉に仕切られ,北(正面に向かって右)から順に北倉,中倉,南倉と呼ばれています。北倉と南倉は,大きな三角材(校木)を井桁に組み上げた校倉造りで,中倉は,北倉の南壁と南倉の北壁を利用して南北の壁とし,東西両面は厚い板をはめて壁とした板倉造りです。また各倉とも東側の中央に入口があり,内部は二階造りとなっています。北倉は主として光明皇后奉献の品を納めた倉で,その開扉には勅許(天皇の許可)を必要としたので勅封倉とよばれ,室町時代以後は天皇親署の御封が施されました。中倉・南倉はそれ以外の東大寺に関わる品々を納めた倉で,中倉は北倉に准じて勅封倉として扱われ,南倉は諸寺を監督する役の僧綱の封(後には東大寺別当の封)を施して管理されましたが,明治以後は南倉も勅封倉となりました。

正倉院宝物が現在もなお極めて良好な状態で,しかも多数のものがまとまって残されているのは,一つには勅封制度によってみだりに開封することがなく,手厚く保護されてきたことに負うところが大きいのです。また建築の上からみると,宝庫がやや小高い場所に,巨大な檜材を用いて建てられ,床下の高い高床式の構造であることが,宝物の湿損や虫害を防ぐのに効果があったものと思われます。その上,宝物はこの庫内で辛櫃に納めて伝来されましたが,このことは櫃内の湿度の高低差を緩和し,外光や汚染外気を遮断するなど,宝物の保存に大きな役割を果たしたのです。

ところでこの宝庫は,奈良時代の創建以来,幾多の危機に見舞われています。治承4年(1180)の平重衡の奈良焼き(南都焼打ち)や永禄10年(1567)の三好,松永合戦の兵火による大仏殿炎上,建長6年(1254)の北倉への落雷などがその主なものですが,幸運にも大事に至らず,ゆるぎない姿で今日に伝えられたのです。しかし,その間には経年による朽損,雨漏りなども少なくはなく,建物の維持のため,大小いくつもの修理が行われています。たとえば,いま見る外観のうちで,床下の柱に巻いた鉄の帯や,本屋を支える根太の鼻にかぶせた銅板は,後世の修理時に加えられたものです。

なお,宝庫の建築年時については,そのことを直接記録した資料がないので明確ではありませんが,文献に見える記事から,おそくとも天平宝字3年(759)3月以前に出来上がっていたことは確実とされてきました。また宝庫が校倉と板倉とを一棟にまとめた特異な構造であるため,はたして創建の当初から現在のような形であったのか,あるいは中倉は後に継ぎ足されたものではなかったかということが専門家のあいだで議論されてきましたが,近年では,使用されている建築材の科学的調査(年輪年代法)によって,宝物献納と相前後する時期に,最初から現在見るような姿で建築されたと見る説が有力となっています。

なお,この正倉は,平成9年(1997)に国宝(正倉周辺地域は史跡)に指定され,翌年には「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録されています。

西宝庫・東宝庫

正倉の西南と東南に建っている宝庫で,西宝庫は昭和37年(1962)に,東宝庫は昭和28年(1953)に建築されました。ともに鉄骨鉄筋コンクリート造りで,現在は空気調和装置が完備されています。西宝庫は,正倉に代わって整理済みの宝物を収蔵している勅封倉で,毎年秋季に開封され,宝物の点検,調査などが行われます。東宝庫には現在,染織品を中心とした整理中の宝物と聖語蔵経巻が収納されています。

西宝庫

西宝庫

南東から見た正倉

東宝庫

聖語蔵

もと東大寺の塔頭尊勝院の経蔵として建てられた校倉で,もとは転害門内にありましたが,明治年間,経典類が皇室に献納されたのにともなって,東宝庫の前方の現位置に移築されたものです。経典類は,中国の隋経・唐経をはじめ,奈良,平安,鎌倉時代の古写経その他の約五千巻で,今は東宝庫に収納されています。

聖語蔵

聖語蔵